File No.3/連載・全3話
【ヴィジョナリー・カンパニー代表 大塚和彦先生】
バックパッカーから企業家への転身!
第1話『バックパッカーになるまで』
日本でも多くの方に親しまれている「オラクルカード」や「タロットカード」。オラクルカードはおもにアメリカやオーストラリアを中心に、20世紀後半に広まったものです。また、古くから存在するタロットカードの起源は15世紀にまでさかのぼり、イタリア・フランス・イギリスなどヨーロッパを中心に各国で広まりました。
こうしたカードの出版から流通までを専門とした日本初となる会社を手がけ、すでに20年近くになる株式会社ヴィジョナリー・カンパニーの創業者、大塚和彦先生に起業家になるまでのエピソードを語っていただきました。
――大塚先生は当社から『日本の神様図鑑』を出版されましたが、以前から「オラクルカード」や「タロットカード」を数多く出版されていることで有名ですね。本日は大塚先生が起業家としてご活躍されるまでの道のりについてお聞かせいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。まずは時をさかのぼり、大学時代からお話ししたいと思います。
私は國學院大學の史学科出身で、日本の近現代史を専門としていました。史学というと、古代の文献などを通じて研究するイメージをお持ちの方も多いと思いますが、私はおもに明治から昭和にかけての日本について学んでいました。
その頃、教師になりたいという気持ちがあったので教育実習もしましたが、実際に実習をして感じたのは、「今このまま教師になったとしたら、自分が実際に見聞きした体験から『自らの言葉』で生徒に伝えていくことのできることって、どのくらいあるんだろう」 ということでした。今までの自分の経験値などを含め、進路をいろいろと考えた末、卒業後は教師ではなく民間企業に入社して社会経験を積むことにしました。
大学を卒業して入社した先は経営コンサルタント会社だったのですが、入社早々にして、“研修が終わったら、この中のだれかに転勤が命じられそうだ”という空気が流れ始めたんです(事務所は入社した東京をはじめ、全国各地にありました)。何となく自分が任命されそうな気配を感じていた矢先、やはり自分が全国の事務所の中でも一番小さかった石川県への事務所への転勤を命じられました。転勤がつきものとはいえ、私にはそれをどうしても受け入れることができない、ある事情がありました。
――入社して間もなく転勤、とは急展開でしたね。そしてそれを受け入れることのできない「ある事情」とはどのようなことだったのですか?
じつは私、大学時代にキックボクシング部に所属し、それもかなり本格的に取り組んでいました。実際、戦績もよく、強い部でした。そのため、自分が4年生のときに1年生だった後輩たちが卒業するまでは、どうしても部を見守りたいという気持ちが強く、就職面接の際に「3年間は東京で働かせてほしい」という条件を話したほどで、それを受け入れてくれた会社に入社を決めた、という経緯があったのです。
ですが現実はそうではありませんでした。入社してまだ3週間しか経たないうちに上司から辞令が下り、不本意ながらにも石川への転勤が決まりました。
その後、石川で仕事を続けるなか、ずっとある気持ちが消えませんでした。それは、「いつか自分が部下を持った時、今度は自分が部下に対して、あのときと同じ思いをさせてしまうのは絶対に嫌だな…」ということ。
なかなかその気持ちを消化することのできなかった私は、ある日思い切って部署の上司に打ち明けてみたのです。ですが上司から返ってきたのは「会社とはそういうものなんだよ…」「3年たったら1人前。いまはまだ我慢しなさい」というような言葉でした。
その言葉を受けて、「(会社とは)そういうもの、の『そう』とは何なのか?」、「3年たったら1人前? 年月が人の成長の区切り目になるものなのか…?」 湧き上がってくるその思いを、いつまでも消すことができませんでした。
――上司としては、「会社組織とはそういうものだから何とか納得してほしい」、という気持ちからの言葉だったのでしょうね。けれど、実際それで納得するのは難しいものですね…。
そうですね、私には難しかったです。しばらくはそんな気持ちを抱えながら仕事をしていたのですが、1995年の秋、戦後50年目という大きな節目を迎え、そこから私の進路は大きく変わることになりました。
――どのように大きく変わったのでしょうか?
大学時代に近現代史を学んでいたことは最初にお話しましたが、かねてから日中関係に関心があったこともあり、戦後50年を迎えた中国を実際この目で見てみたいと思い、思い切って休暇届を出して1週間ほど中国へ旅に出ることにしました。初めての海外旅行でしたが、航空券だけを購入し、あとはフリーでの旅でした。
上海へ行った後、蘇州や南京にも足を運び、歴史博物館なども観たりしながら旅をしていたのですが、いよいよ帰国する前日…、ふと現地の安い宿に泊まってみたくなったんです。どんな宿があるのかを現地の人たちに聞いてみたところ、なぜか口々に同じ宿の名が出てきました。こうなったら泊まるしかないですよね(笑)。行ってみるとそこは1部屋8人くらい入れる広さのドミトリーで、ベッド以外は共用、という建物でした。
中に入ると、たままた居合わせた二人の日本人が目に飛び込んできました。1人は20代半ばくらいの青年で、もう一人は旅慣れた40過ぎのヒゲを生やした男性。二人で何やら会話をしています。
「僕はこれからパキスタンからイランの方に行ってみたいんですけど、どのようにしたら行けますか?」と尋ねる青年に対し、ゆっくりとマグカップを片手に持ちながら答えるヒゲの男性。
「パキスタンに行くと〇〇というホテルがあって、そこに行くとツーリストが結構いるよ」
「行くなら、おすすめのガイドブックがある。外国人のバックパッカーはだいたいみんな持っている本で、『ロンリープラネット』っていうんだ。情報量がものすごい。英語で書かれているガイドブックなんだけど、これは本当に使えるよ」
「行ってみれば想像よりもたいしたことはないよ。でも危険なポイントがいくつかある。こういう点にはくれぐれも気をつけて……」
私は悠然と答えるそのヒゲの男性の姿に衝撃を受けました。今から25年も前のことですからね。イランやパキスタンといった国に自らの足で行くことができるのか! という驚き。そして、ガイドブックのタイトルにある『ロンリープラネット』(=「一人ぼっちの地球」)という言葉の響き。そして、なんといってもその男性の言葉すべてが、自分の体験から発せられているものである―。これが一番大きな衝撃でした。
それと同時に、かつて教師をあきらめたときの理由もはっきりわかったのを感じました。
「私は自分で経験したことしか口にしたくないのだ」という強い気持ちと、「今、自分が喋っていることは、どれだけ経験したことから出てきている言葉なのだろう?」という疑問。
それらがわかった以上、もう元の生活には戻れません。あのとき上司に言われた「一人前になれる3年目」の少し手前、2年11か月目に辞表を提出し、会社を後にしました。
それは、「3年で一年前」という社会に対しての、わずかばかりの抵抗でもありました――。
第2話へ続く(7月9日公開予定)
(取材・文 向山邦余)
ヴィジョナリー・カンパニー公式HP