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2023.01.01

🏯江戸幕府の初代将軍!
徳川家康(1542~1616年)とはどんな人物だったのか?

 2023年のNHK大河ドラマは、松本潤さん主演の「どうする家康」です。徳川家康はどのような人物だったのか? 人物で読み解く日本史365人』(佐藤優  監修)から、学んでみましょう!

織田信長、豊臣秀吉とともに「三英傑」の一人に数えられる天下人

 織田信長、豊臣秀吉とともに「三英傑」の一人に数えられる天下人となった戦国武将で、江戸幕府の初代将軍となった人物。三河国の岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれた。幼名は竹千代(たけちよ)(いみな・生前の本名)元信(もとのぶ)元康(もとやす)、最後に家康(いえやす)と名乗った。

 

 少年期は人質として有力大名のもとを転々とし、いつ殺されてもおかしくない不遇な時期を過ごす。今川義元のもとで人質となっていた1560(永禄3)年、桶狭間の戦いによって義元が信長に討たれ、ついに自由の身となる。

 

 岡崎城に戻って自立を果たした家康は、信長と同盟を結び、三河を統一して戦国大名として頭角を現していった。

人生最大の敗北と形成逆転

 1570 (元亀元)年の姉川の戦いでは、信長を助けて浅井・朝倉軍を撃破。さらに、1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦いでも、信長と協力して戦国の雄・武田信玄に挑んだ。だが、ここで家康は人生最大の敗北を喫する。敗走した家康は、恐怖のあまり馬上で脱糞しながら浜松城に命からがら逃げかえったという逸話が残っている。近年の研究では「後世の創作の可能性が高い」と指摘されているが、後の天下人にふさわしくない「脱糞伝説」が生まれてしまうほどの歴史的大敗だったのは間違いない。

 

 しかし、信玄の死去によって形成は逆転。1575(天正3)年の長篠の戦いで信長と協力し、信玄の後継者・勝頼の軍に大勝した。信長が武田氏を滅ぼすと、家康は戦功によってかつて今川氏が支配していた駿河国を与えられた。
 信玄にこっぴどく苦しめられた家康だが、後年の政策は軍事・内政ともに武田家を手本にしたものが多く、さらに武田の旧臣を多数迎え入れていることなどから、ある種の尊敬の念をもっていたことがうかがえる。

信長の死去後、5カ国を領有する大大名に

 本能寺の変で信長が死去すると、5カ国を領有する大大名となり、1584(天正12)年に信長の子・信雄との連合軍で、豊臣秀吉の軍に大勝する(小牧・長久手の戦い)。しかし、秀吉の巧みな交渉に信雄が屈服し、家康も秀吉の配下に加わった。

 

 秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡すると、1590(天正18)年に領地を東海地方から関東へ移され、江戸城を新たな本拠とした。

 

 当時の江戸の一部は海や湿地帯だったが、家康は海を埋め立てて土地を増やした。そこに家臣や民を呼び寄せ、町づくりに力を入れたことで江戸は活気づいていった。

 

 家康は町づくりの中でも特に運河の整備を重視し、全国からの船が行き交う物流の要衝となったことで江戸はさらに発展した。こうした家康の政策によって江戸の人口は急増し、現在の東京の繁栄につながっている。

新たな幕府を開き、事実上の天下人に

 1596(慶長元)年に秀吉の推挙で内大臣となり、秀吉が死去すると、豊臣政権の中枢を担う「五大老」の筆頭となる。

 

 1600(慶長5)年に関ヶ原の戦いで石田三成を中心とする西軍に勝利し、1603(慶長8)年に征夷大将軍に任命されたことで新しい幕府を開くことになり、事実上の天下人となった(関ヶ原の戦いは豊臣政権内での勢力争いで豊臣家との戦ではないため)。しかし、秀吉の後継者・豊臣秀頼は依然として西日本の大名たちへの大きな影響力をもっており、まだまだ家康が完全に天下を手に入れたとはいえない状況だった。

 1605(慶長10)年には将軍の座を三男・秀忠に譲って引退するが、その後も駿府城で官位の束縛を受けない「大御所」として政治の実権を握り続けた。

 

 豊臣家を滅亡させるきっかけを待っていた家康は、秀吉の遺児・秀頼の手によって再建が進められた寺に「国家安康」「君臣豊楽」と刻まれた鐘があることに着目し、これに「家康の名を引き裂いて胴切りにし、豊臣家を讃える言葉だ」と難癖をつけた。

 家康は秀頼か淀殿の江戸移住、もしくは秀頼の国替えを求めたが、豊臣側は完全に拒否。これを口実として、家康は大坂城を攻めるために挙兵した。

大阪冬の陣・夏の陣と豊臣家の滅亡

 1614(慶長19)年の大坂冬の陣では、大坂城の堅牢さと豊臣軍の奮闘に苦戦。外堀を埋めることを条件に豊臣側と和睦したが、約束を破って内堀まで埋め、必勝を期して翌年の大坂夏の陣で再戦する。

 

 豊臣方の真田幸村(信繁)が率いる真田隊の突撃によって、家康本陣の象徴である金扇の馬印が倒され、家康が自害を覚悟するほどの危機もあったが、圧倒的な戦力差によって大坂城を陥落させ、ついに豊臣家を滅ぼした。

264年続く太平の世の基礎を築いた天下人の最期

 その後は武家諸法度、禁中並公家諸法度などを制定。徳川幕府の権力をより盤石なものとしたが、1616(元和2年)に駿府城で病没した。食生活に留意して酒も飲みすぎず薬を自ら処方するなど健康志向が強く、死去したのは75歳と当時としてはかなり長命だった。死因は諸説あり、かつては鯛の天ぷらを食べたことによる食中毒説が主流だったが、近年は胃がん説が有力となっている。

 死後は久能山(現・久能山東照宮)に葬られ、一周忌が過ぎてから日光東照宮に分霊された。1617(元和3)年には「東照大権現」の神号が贈られ、神格化されている。

出典 『人物で読み解く日本史365人』

本記事は、上記出典を再編集したものです。(新星出版社/向山)

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1960年、東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。
1985年に同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省に入省。在英国日本国大使館、在ロシア連邦日本国大使館に勤務。その後、本省国際情報局分析第一課で、主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕、起訴され、2009年6月に執行猶予付き有罪確定。2013年6月、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失った。『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞。
『読書の技法』(東洋経済新報社 )、『勉強法 教養講座「情報分析とは何か」』(KADOKAWA)、『危機の正体 コロナ時代を生き抜く技法 』(朝日新聞出版)など、多数の著書がある。

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