今年のNHK大河ドラマ『どうする家康』。2023年1月からスタートし、早くも半年が経ちましたが、皆様はご覧になっていますか? ドラマとともに注目を浴びているのが、徳川家康とゆかりのある城。今回はそのなかから、①徳川家康の生誕の城である岡崎城、②徳川家康が築城し、最後の将軍・慶喜(よしのぶ)が大政奉還を行った二条城、③徳川御三家のひとつ、尾張徳川家の居城であり、鉄壁を誇る近世城郭の完成形である名古屋城をご紹介します。ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
岡崎城は、享禄4年(1531)に松平氏の本城となったが、三河が今川義元の属国となり、この城も接収されてしまう。桶狭間合戦で義元が討たれると、今川氏から独立した徳川家康は、この岡崎城を拠点に三河統一を果たすことになる。家康の関東移封後は田中吉政(たなかよしまさ)が惣構の堀を築くなど大改修を施し、江戸時代には本多氏、松平氏などといった譜代大名の居城となる。
岡崎城は乙川に突出した河岸段丘の先端に本丸を置き、その外方に多くの曲輪を梯郭式に配置し、虎口には丸馬出を構えていた。
🏯岡崎城は徳川家康が生まれた城で、家康が産湯に使ったと伝えられる「東照公産湯の井戸」と、家康のへその緒を埋めたと伝わる「東照公えな塚」がある。
🏯本丸北面にある、城内で最も深い空堀(青海堀)。
天下普請によって、慶長6年(1601)に築かれた、江戸幕府の京都における公儀の城。初代家康から3代家光までは、この城で将軍宣下にともなう賀儀を行っている。その後、将軍の上洛は200年近く途絶えたが、慶応3年(1867)、最後の将軍・慶喜(よしのぶ)がこの城で大政奉還を行った。
創建当時は単郭式の城だったが、寛永元年(1624)の大改修により、二の丸が本丸を囲む、輪郭式の城郭となった。かつては五重の天守も備えていた。二の丸の御殿もこの時増築されたもので、現存する貴重な御殿建築である。
🏯大政奉還が行われた場所として有名な、貴重な御殿建築である二の丸御殿。
🏯東大手門から南にのびる石垣と土塀の東南隅にそびえる櫓(隅櫓(すみやぐら))。
🏯四足門に唐破風を備えた、最高級の格式の唐門。
駿河の今川氏が築城し、古くは「那古野(なごや)」と称した。後に織田信秀が奪って織田信長に与えたが、信長の清州移転とともに尾張の拠点も清州城となる。関ケ原合戦後も、清州には徳川家康の息子たちが入城した。
家康は大坂の豊臣秀頼を牽制するため、大坂城以上の巨城の築城を画策。清州は水害が多く適地ではないため、新たに選地されたのが那古野の地であった。慶長15年(1610)に天下普請で工事が開始され、完成後は徳川御三家のひとつ、尾張徳川家の居城となる。天守・本丸御殿などは、1945年の空襲で焼失した。
平城とされることが多い名古屋城だが、正確には台地の北西隅を利用して築かれている。縄張は本丸を中心に、東に二之丸、西北に御深井丸(おふけまる)、西南に西之丸が配され、それらの南西を広大な三之丸で囲んだ梯郭式。曲輪はすべて方形で、外側には多聞櫓(たもんやぐら)をめぐらせていた。山城のように複雑な縄張で守るのではなく、広大な堀と多聞櫓による「面」を防衛ラインとしたのである。さらに、本丸の東側と南側の虎口前面に構えられた巨大な角馬出が、防衛を強固にしていた。
1959年には天守が外観復元で復興されたが、老朽化により木造復元の議論が進められている。また2018年には本丸御殿が木造・伝統技法で復元され話題を集めた。その他、重文である3基の櫓や3棟残る門、諸大名が技を競った天守台や刻印石(こくいんせき)も見逃せない。
徳川家康ゆかりの城はこのほかにいくつもあります。その歴史を辿ってみるのも楽しいですね!
出典『日本の城』
本記事は、上記出典を再編集したものです。(新星出版社/向山)
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