File No.8
【作家・芸能プロダクション経営者 山口敏太郎先生】
妖怪やUMA、「正体不明の面白さ」をこれからも広めていきたい
【受賞歴】
1996年 ムーミステリーコンテスト(学研主催)優秀賞
1996年 坂本竜馬からの手紙(京都酢屋主催)優秀賞
1997年 サンキュの日コンテスト(ベネッセ主催)優秀作品
1997年 ナインハーフ体験コンテスト(東宝主催)優秀賞
1997年 大石りくエッセー(富岡市役所)佳作
1997年 このお店のここが好きここが嫌い(商業界主催)入選
1998年 やけど予防(やけど予防)入選
1998年 派遣社員の女達(ウェイブ出版)優秀賞
1998年 私を納得させたクレーム対応(明日香出版)優秀賞
1998年 我が家の家計簿 生活設計(千葉県貯蓄推進委員会)秀作
1998年 七夕まつりドリームスターコンテスト(仙台七夕まつり)佳作
2008年 徳間書店刊行雑誌『不思議大陸アトランティア』編集長賞
作家・漫画原作者・ライター・オカルト研究家として活躍中の山口先生。とくに妖怪や都市伝説、UMA(未確認生物)についての作品を数多く手がけ、現在はご自身のラジオ番組やYouTubeチャンネルで、さまざまな切り口から新たなエピソードを発信しています。また、実業家としての顔も持ち、芸能プロダクション㈱山口敏太郎タートルカンパニーを運営しています。本日は、山口先生が作家となったきっかけや芸能プロダクションを設立するに至ったいきさつなどをお話しいただきました。
――山口先生がご執筆された書籍は妖怪をテーマにしたものが多いですが、山口先生が妖怪に興味を抱くようになったのはいつ頃のことだったのでしょうか。
私にとって妖怪とは、何かのきっかけがあって好きになったというものではなく、子どものころから身近なものでした。というのも、私が生まれ育ったのは徳島県だったのですが、四国には霊場が88か所もあり、お遍路さんが巡礼する姿を見かけるのも珍しいことではありませんでした。親戚や近所のおじさん、おばさんと話していても、「狸に化かされた」というようなフレーズが普通に出てきたりもしていたので、妖怪やお化けの存在については、いても不思議ではないだろう、くらいに思っていました。なので、妖怪を研究することについて、私は特別変わったことを志したという気持ちはないのです。ただ、子どものころから気になったことは徹底的に調べる性格でしたから、妖怪については自然と人よりも詳しい方でした。
――子どものころの生活環境は大きな影響力がありますよね。幼少期の思い出で、心に残っている出来事はありますか?
今でも心に残っているのは、小学生のころ入団していたボーイスカウトでの出来事です。小学5年生くらいから徳島第一団に入団したのですが、やりだすと研究する質なので、手旗信号などボーイスカウトで必要とされるさまざまな技術を研究していきました。その結果、15歳のときにコンテストでなんと全ジャンルで受賞し、日本代表に選ばれ、アメリカへ行くことができました。あれは今でも忘れられない思い出ですね。
――全ジャンルでの受賞とはすごいですね。子どものころに憧れた職業などはありましたか?また、作家になろうと思ったのは、どのようなきっかけがあったのですか。
将来に対する具体的な夢は、そのときはまだありませんでした。父は生真面目な性格で、就職してから定年退職を迎えるまでの50年間、同じ会社に勤めていました。母からも「社会に出たら7人の敵がいるよ」「社会はお前が思っているほど甘くはないよ」などと言われていましたから、きっと大学を卒業して社会人になったら、サラリーマンとしてひたすら働き続ける日々が訪れるのだろうな…… と子どものころから漠然と思っていました。実際、大学を卒業してからは会社員として働いていました。ですが、いつからか親の希望に反し、サラリーマンという枠を外して物事を考える自分がいました。
作家になろうと思ったのは27歳か28歳のときだったと思います。ある日、西船橋の書店の前を通った時のこと。そこには妖怪をテーマとする新刊が置かれており、真っ先に目に留まりました。気になって紙面をパラパラとめくってみたときに、自分にも書けるのではないか、今からでもまだ間に合うのではないか、と思ったのがきっかけです。
その後、学研が主催するムーミステリーコンテストの存在を知り、『妖怪進化論』という論文を応募してみたところ、優秀作品賞に選ばれました。これを機に作家デビューすることになりましたが、周りからはきっと、「山口っていう名の知れないやつが出てきた」「きっと1冊、2冊で消えるだろう」くらいにしか思われていなかったのではと思います。
――コンテストへの応募がきっかけで作家になられたのですね。『妖怪進化論』とは、どのような内容だったのですか?
一言でいうと、妖怪がどのようにして広まって進化していったか、という話です。たとえば、日本の方言のなかには北と南で同じ方言が残っていることが多く、不思議に思う方がいるかもしれません。実はこうした方言の源となるのは都での流行語で、それが地方へと伝播し、部分的に残ったものが現在も方言として使われているというわけです。
それと比較して妖怪について考えてみます。妖怪についての噂話は、方言のように文化の中心で生まれたものが地方に広まるのではなく、各地方で個々に生まれ、それが旅人や全国を渡り歩く薬売りの商人などから話し言葉で伝えられ、広まっていったとされています。名前を聞き間違えたり、意図的に大げさに脚色されながら、その土地に合うようなキャラに姿を変えて種類がどんどん増えていく。それらをまとめたものが『妖怪進化論』です。
――口伝えに広まっていくうちに地方の色をつけながら次第に形を変えながら増えていく、というのは大変興味深いですね。
妖怪は各地方で五月雨式に生まれますからね。そして『本当にいるのか、いないのか?』に焦点が置かれるわけですが、これがまたはっきりしない。どう考えてもいないものだと思われながらも、もしかしたらいるのかもしれないと思える出来事がたまに起きる。このように、はっきりせず曖昧な存在であることが人の興味を引くのではと思います。
――山口先生は、妖怪について研究するにあたり、どのような手法をとられているのでしょうか?
私が妖怪について調査する際に重要視しているのは、フィールドワークです。その妖怪が生まれたとされる地方に出向き、プロファイルを行います。例えば、人はなぜここで「油すまし」を幻視したのか? という1つのテーマを調べるにあたり、文献で調査するだけでなく、その油すましが生まれたとされる地方に行って人々の暮らしなどを聞き取り調査します。すると当時、その地方での農民の暮らしがとても苦しく、そのような背景があって妖怪を幻視したのかもしれない、というところまで見えてきます。実際に現場へ足を運んで聞き取り調査を行わないと見えてこないことは山ほどあるので、文献に残っている情報だけでまとめようとしても浅い内容になり、面白味もあまりありません。文献に載っていない情報こそ、現場に圧倒的にその多くが転がっています。転がっている情報を拾い、それを逆に文献に落とし込む、という作業が必要だと考えています。
――今までにフィールドワークのために訪れた現場の数はどのくらいですか?
妖怪だけでなく、UMA(未確認生物)についても同様の手法をとっています。日本各地、訪問した場所は1000か所以上。お年寄りからも直接話を聞いたりしながら調べていきますが、現場にこぼれ落ちた情報にこそ面白さがあり、そこには限界がありません。文献から得られるのはほんの一部だけであることに気づかされます。また、明らかに人が作ったとわかる妖怪であっても作った理由が見え隠れしますので、フィールドワークはとても重要だと考えています。「やるからには真面目にコツコツと突き詰めたい。中途半端では意味がない。その分野で一番詳しくなりたい」と思う気持ちが人一倍強いのでしょうね。
――その後、作家として次々に作品を世に出されていますが、妖怪をテーマにしたもの以外にも数多く刊行されていますね。
そうですね。私はもともと歴史が好きで、いままで手掛けた作品は200冊近くにものぼりますが、時代小説も何本か書きました。戦国時代や幕末が特に好きで、『戦国海援隊』という作品を連載していたこともありました。海援隊が戦国時代にタイムスリップした話です。これは残念ながら連載の途中で雑誌が終わってしまいましたが……。
時代小説だけを書いていきたいという気持ちもありますが、人気があるのはやはり妖怪やUMAですね。いまは、東京スポーツの本誌で、現代妖怪図鑑という連載を掲載しています。
ちなみに私が住んでいる千葉県では、小学生の間で伝わっていた妖怪「デカチャリ」(バイクのエンジンを載せた自転車の妖怪で、小学生を追い回す)や、「ニャーニャーねえさん」(肉まんを食べていると襲い掛かってきて食べられてしまう)など、実に個性的でコミカルな妖怪もいますよ。妖怪は面白く、その研究には終わりがないですね。
――当社からも、『もしもUMAに出逢ったら』という書籍を出されましたが、面白いテーマですね。
今回のような、ギャグテイストのものは初めてでした。もしもUMAに出逢ったらこんなふうに対応すべし! という内容の本で、キャリアがあるからこそ書ける内容かな、と思いまして。子どもが読んでも大人が読んでも楽しめるように、笑わせてやろう!という気持ちで執筆しました(笑)。
――ところで山口先生は、作家としての活動以外にも芸能プロダクションの経営者としてご活躍されていますが、いつごろ会社を設立されたのですか。
芸能プロダクションとして、山口敏太郎タートルカンパニーを設立したのは、40歳のときでした。小説などを書く一方で、頭の中では「何がいま流行っているのか?」をずっと考えていました。その核にあるのは、やはり妖怪やUMAなど、人気のあるテーマ。「面白ければ何でもやってみたい。枠にはまらない面白い人はいっぱいいた方がいい。若い人たちにチャンスを与えたい」そういった気持ちで会社を興しました。妖怪を手段に町おこしのイベントをしたり、早いうちからSNSに着目し、メールマガジンやTwitter、ブログなどで発信したり。軌道にのるまで10年かかりましたが、ひとつの物事を達成するには、そのくらいはかかるものだと思います。
新たな取り組みとしては、「怪談師」という資格を作ったりもしました。当時、怪談話を得意とするのは稲川淳二さんくらいしかいませんでした。そこで、怪談を語ることを生業にする人がいたら面白いのではないか? と考え、関西テレビと組んで怪談グランプリという企画をやってみたり、中日新聞社と組んで、怪談王という企画をやってみたりもしました。
私は、切り口は違っても、「人の心を揺り動かす」という点で、芸能プロダクションも作家も同じであると考えています。時代の数歩先を読む力は必須ですね。より多くの人に新たな刺激を与えていくためには、一度やると決めたら、やらないという選択肢はない。あまり計算しすぎると時間ばかりが経ってしまうので、やるだけやってみてから考える、ということも時には必要です。
起業してしばらくの間は、一日かけて古文書の虫干しをしたときもありましたが、YouTubeなどを比較的早いうちから取り入れ、SNSの活用をいろいろな角度から増やしていきましたので、今は安定して運営しています。ダメかなと思ってもすぐにやめず、軌道修正しながらコツコツ続けていくことは大切なことだと思いますよ。
――これから取り組んでみたいと思うことを教えてください。
ネットによる収益増加を図るほか、コロナ禍のいま、あえてやってみたいのはイベントです。ライブイベントは人数を絞ったものにしたり、オンラインのイベントなどに移行するなど工夫したうえで、何か実現できればと考えています。
――最後に、読者の方へ一言お願いします。
以前、会津で町おこしイベントを企画した際に、地元に住む小学生が私のファンだと聞き、大変嬉しく思いました。私自身も子どものころに水木しげる先生にサインをいただいて大喜びしたことを今でも覚えていますが、今度は自分が若い子にバトンを渡す番なのだと思うようになりました。妖怪やUMAは、いつの時代も老若男女問わず心を惹かれるものがあります。歴史小説の執筆のみに戻りたい気持ちもありますが、いい意味でこれからもこだわっていきたいと思っています。
◆「妖怪は、『本当にいるのか、いないのか?』どう考えてもいないものだと思われながらも、もしかしたらいるのかもしれないと思える出来事がたまに起きる。このように、はっきりせず曖昧な存在であることが人の興味を惹きつける」
◆「研究で重要なのはフィールドワーク。現場にこぼれ落ちた情報にこそ面白さがあり、そこには限界はない。文献から得られるのはほんの一部だけである。また、明らかに人が作ったとわかる妖怪であっても、作った理由が見え隠れする」
◆「『人の心を揺り動かす』という点で、芸能プロダクションも作家も同じである。時代の数歩先を読む力を持つことは必須。より多くの人に新たな刺激を与えていくためには、一度やると決めたら、やらないという選択肢はない。あまり計算しすぎると時間ばかりが経ってしまうので、やるだけやってみてから考える、ということも時には必要である」
◆「ダメかなと思ってもすぐにやめず、軌道修正しながらコツコツ続けていくことは大切なことである」
取材・文/向山邦余