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2021.08.05
スペシャルインタビュー“プロへの道”

File No.11 【東南アジアのスペシャリスト 助川成也先生】
活気あふれる東南アジアの魅力を、多くの人に伝えていきたい
[後編]2度目のタイ駐在から現在へ

国士舘大学政経学部教授。1969年、栃木県生まれ。九州大学大学院経済学府博士後期課程修了、博士(経済学)。中央大学経済研究所客員研究員、亜細亜大学アジア研究所特別研究員、国際貿易投資研究所(ITI)客員研究員、東アジア共同体評議会有識者議員。Yahoo!ニュース公式コメンテーター。専門はタイを中心とした東南アジア経済、FTA等の通商戦略。
1992年よりジェトロ(日本貿易振興機構)勤務。タイ・バンコク事務所主任調査研究員、地域戦略主幹(ASEAN)など20年にわたり東南アジア関連業務に従事。2017年に国士舘大学へ。20年に現職。東南アジアの経済・通商戦略など企業向け講演も多数行う。

タイで記録に残る大洪水を経験! 水没7か所、被害にあった企業数は800社、そのうち450社が日系企業。そこでとった対応とは?

――5年9カ月間におよぶタイでの駐在期間を経て帰国した助川先生。帰国後はどのような仕事に就いたのですか?

 2004年春に帰国してからは、海外調査部で東南アジアとオセアニアを担当する「アジア大洋州課」に戻りました。これまでは、タイ一国を見て、特に現場で日本企業支援の仕事を中心にしてきましたが、今度はASEANを中心とした自由貿易協定(FTA)や経済連携協定(EPA)の構築動向やその協定に関する経済への影響等の調査を担当することになりました。

 

 前回のタイ駐在は5年9か月という長期でしたが、今回の調査部でも、定期異動がある組織としては異例ですが、6年間にわたってASEANをじっくり調査・研究しました。ASEANがちょうどこの頃に「2015年までにASEAN経済共同体(AEC)の設立を目指す」と宣言したことを受け、東南アジアの地域経済統合への対応を、企業は早急に検討する必要がありました。そこで具体的に、「AECが設立することによって事業や投資環境はどう変貌するのか」が明らかになるよう、調査や企業への情報提供に力を注ぎました。

 

 このときのASEANの経済統合に関する知識の蓄積によって、「東南アジアのことは助川に聞け」とまで言われるようになり、社内外で「東南アジアの専門家」としてのイメージ作りに大いに役立ったと思います。

 

 

 その後も、次の海外駐在先としてタイ・バンコク事務所の「ASEAN広域調査」のポストを強く希望しました。その結果、「東南アジアの専門家」のイメージ定着も手伝って、再びタイに赴任することになりました。「また現場目線で仕事ができる」と考えると、とても嬉しかったですね。そして2010年3月からASEAN全体を対象とする主任調査研究員(広域調査員)として赴任。タイ以外の東南アジア各国にも頻繁に出張し、現地調査を重ねました。

――専門家としての立場を確立されたのですね! 再び訪れたタイ駐在で、印象に残っている出来事を教えてください。                                           

 今でも印象に残っている大きな出来事は3つあります。

 

 1つ目は、現場で働く人たちの生の声をより一層聞き、タイやAECの政策に反映できたことです。私が赴任する前の年から、ASEAN各国の日本人商工会議所の会頭を集め、ASEAN事務総長との対話の場が設けられていました。当時の事務総長はタイのスリン・ピッスワン元外相で、日本企業の投資とその役割の重要性に理解を示していました。そこで日本企業がASEANでの事業運営にあたって何に困っているのか、またどんなことをASEANに期待しているのか、などを企業担当者にヒアリングしていたのですが、企業の現場側からすると、進出先国の政策や事業運営に対する不満や改善希望はあっても、ASEANとなるととんと声が出ないという状況でした。

 

 そこで、私が担当になってからは、前の部署で専門的に調査・研究をしてきた2015年に実現を目指すAECでの施策に焦点を絞り、それに関する声を集めました。政策を実行するのはあくまで各国政府ですが、その設計図はASEANがAECの政策の一環として描いているものも結構あるのです。そこで、現場から出た具体的な内容を聴取していくと、そこで働く人たちがどのようなことで悩んでいるのか、生の声が次々とあがるようになりました。それからというもの、AECの政策のどの部分を変えていけば、企業の課題解決が出来るのかを日夜考えるようになりました。

 日本企業はコンプライアンス(法令順守)意識が非常に高い一方で、その大元の設計図は政府が策定するものとの意識が強く、外国企業である日本企業がその政策策定・改変に関わろうとする意識はほぼありません。実はそこが重要なポイントなのですが、設計図に誤りがあり、何かが企業活動を阻害しているのであれば、設計図の修正を要請することは企業の方々の事業環境の整備に繋がります。日本企業がASEANに進出することによって、企業も進出先国も、お互いがWin-Winの関係にならないといけないですからね。少しでも現場で働く皆さんの役に立ちたい。その一心で必死に取り組みました。

――ASEANに日本が進出するうえで、まさに重要な役割を担っていたのですね。

 そうですね。実際に要望が叶って修正が行われた時は本当に嬉しかったですし、要望した企業から感謝もされ、やりがいも感じました。

 

 印象に残っている出来事の2つ目は、私が赴任した2010年4月頃から始まったバンコク騒乱です。タイでは、数年前から国を二分する対立が起きていました。タクシン派(タクシン元首相を支持する反独裁民主統一戦線)の赤シャツグループと、反タクシン派の黄色シャツグループとの対立で、私の事務所の近くのラチャプラソン交差点に赤シャツグループがステージを設けて居座り、当時のアピシット政権の退陣を求めて反政府集会を開いていました。仮に警察や軍により強制排除が始まれば、駐在員や現地スタッフの身の危険が及びかねないという懸念もあったので、まずは日本人居住区に近いスクムヴィット地区のホテルに部屋を借り、事務所機能を一時移転しました。そこで業務を続けながら、この時期に現場にいる自分ができることとして、集会会場の様子や出来事を毎日のように写真に撮り、そして記録して記事にまとめ、ジェトロのホームページを通じて現場からの最新情報として発信していくことにしたのです。この騒乱は、5月に警察と国軍が反政府デモ隊を強制排除するまで続きましたが、自分の目の前で起きていることを現場目線で記録し、実体やファクトをベースにして記事を書いて発信していくという経験は、インターネットや各種文献からの情報を集めた研究機関のレポートとは異なる性質を持つものだけに、次にお話しするタイ大洪水のときにも生かされましたし、今も役立っています。

 そして3つ目の大きな出来事は、2011年10月に発生したタイの大洪水です。 

 バンコク以北のアユタヤ県に、当時、住金物産が出資する「ロジャナ工業団地」があり、タイの工業団地の中でも最大規模を誇っていました。その巨大な工業団地が洪水に飲み込まれたことをきっかけに、私自身、深く関与することになったのです。

 

 ロジャナ工業団地には、ホンダも入居していました。出荷を待つばかりの何百台という新車が屋根まで泥水に浸かっている光景は、日本のニュースでも何度も報道されていたので、ご存じの方も多いでしょう。

 

 

 ロジャナ工業団地が洪水に飲み込まれようとしていたちょうどその日、ロジャナ工業団地に工場を構える大企業の社長たちがジェトロに駆け込んできたのです。本来であれば、バンコク事務所長が応対すべき方々なのですが、所長が外出で不在の中、次長として私が応対しました。

 

 みな、汚れた作業服姿のままで、ある社長は片方だけ靴を履いていませんでした。洪水で片方の靴が流されたのです。中には、名刺も流され、名刺交換も出来ない方もいらっしゃいました。私は瞬時にして「これはただごとではない!」と思いながら話を聞きました。「あっという間に北から大量の水が流れ込み、工場団地にもどんどん水が入ってきている。どうにかならないか?」とのこと。

 ジェトロは経済産業省に関連する政府関係機関であるため、経済関連の立場から日系企業支援を行おうと、外出から急遽戻った所長や本部の担当部署と相談し、その日のうちに被災企業支援に向けた緊急相談窓口を立ち上げました。

 

 北から降りてくる洪水で、次々と工業団地が水没し、その数はあっという間に7つになりました。入居している日本企業の数は450社もあり、工業団地周辺の企業を含めれば被災企業は500社以上にものぼります。もちろんタイ国民が最大の被災者でしたが、アユタヤ県をはじめ、水没した7つの工業団地の大半は日本企業の工場であり、電気・電子部品の産業集積地でしたから、その被害は甚大なものとなりました。これらの工場が被災し、生産が止まってしまうと、どんなことになるか……。想像しただけでも身震いが起きました。

 

 

 そこで私たちは、被災企業が何に困っているのか、どのような支援を求めているのか、などを聞き取り、それを要望書としてまとめ上げ、タイ政府と日本政府それぞれに支援を要請することにしました。数多く寄せられた要望の中には、「電気・電子部品製造に不可欠な金型が水没した工場に残されている。代替生産をするため、それを取り出したい」との声がありました。そこでタイ政府に繋ぎ、陸軍から調達した大型のいかだの貸与を受けたり、水中に沈んだ金型を取り出すためにダイバーを紹介してもらうなどの協力を受けましたが、それだけでは代替生産は出来ません。

 

 被災企業の多くは最終メーカーではなく、製造工程に投入される中間財の生産を担当する部品メーカーです。部品メーカーの企業はみな、「自社がサプライチェーンを止めるわけにはいかない。何としてでも供給責任を果たす」という強い決意を持っていました。そこで、どうしたら供給責任を果たせるのかを各企業にヒアリングしていったところ、「金型さえあれば日本の工場で代替生産ができるが、その工程を熟知した人材はもはや日本では確保出来ない。被災工場で働いていたタイ人従業員を一時的に日本へ渡航させることができれば、そこで代替生産ができるのだが……」、という声が多く上がったのです。とはいっても、当時の日本では観光ビザを取得するだけでも難しく、工場で働く一般のタイ人従業員を日本の工場に派遣するなんて、とんでもないというような雰囲気でした。実際に在タイ日本大使館にいくら掛け合ってみても、「今の日本では50年経っても無理」と、門前払いされました。

 

 

 この緊急事態に、なすすべはないものかと頭を悩ませていると、毎日、洪水の状況を報告していた経済産業省と中小企業庁が「サプライチェーンの維持は国家的緊急課題」と位置付け、動いてくれたのです。当時、厚生労働省や法務省などでは、不法就労を助長することになるのでは、との懸念を持っていたので、私たちのほうから企業に対してタイ人従業員の管理に関する体制整備をお願いして回りました。

 またさらに、水面下で従業員の派遣を希望する企業から情報を集め、その情報を経済産業省経由で両省庁に説明しながら一つ一つ派遣への障害を取り除く作業をしていったところ、最終的に当時の枝野大臣(現立憲民主党党首)が厚生労働大臣や法務大臣に働きかけ、「緊急措置」としてタイ人従業員の受け入れ制度を整えてもらうことができたのです!  当初、「50年たっても無理」と言われたことが実現したのです。

 

 あの日、ずぶ濡れになった社長たちがジェトロに駆け込んできてからわずか20日間で、日本政府は代替生産のための受け入れ政策を発表、間もなく日本でのタイ人従業員の受け入れが開始されました。

――大洪水が発生してからたった20日間で代替生産のための受け入れ態勢が整ったのは驚きました。どのくらいの方々がこの制度を利用したのでしょうか?

 大洪水が発生してから2012年12月末にビザの申請受付が終了するまでの1年と少しの間、この制度を使った日本の企業数は87社、人数はなんと5,409名にも上りました。

――ものすごい数ですね。想像をはるかに超える人数でした。制度は無事終了できたのでしょうか。

 現地の日系企業が供給責任を果たすため、本当に多くのタイ人従業員が家族を置いて、気候も食べ物も習慣も違う日本に渡航し、代替生産業務に従事しました。代替生産が進む一方で、水没した工場の復旧作業も進み、タイの工場が再開するタイミングにあわせてタイ人従業員は徐々に帰国していきました。

 

 やがて被災工場の復旧が進展し、制度終了のタイミングを見計らい、そのフォローアップとして日本の法務省入国管理局にタイ人従業員の帰国状況を直接確認しました。すると係官から「入国者5,409名が、1名も欠けることなく、全員、タイに帰国したことが確認出来ている」とのことでした。さらに続けて、「今回の受け入れはまさに成功事例であり、我々もたいへん驚いている」との話もありました。

 

 灼熱のタイから真冬の日本へ、しかも日本企業の代替生産のために、家族を置いて単身で渡航した彼らが、その役割を全うし、誰一人欠けることなく全員無事にタイへ帰国できた。このことを知った時の喜びは、今でも忘れられません。

 

  このような出来事を身をもって経験した私は、「現場で企業に役立つ仕事をしたい」という気持ちがさらに強くなりました。しかし、「自分はまだまだスペシャリストにはなれていない。いまのままでは、組織の都合次第で、自分の意図しない部署への異動を余儀なくされるだろう。もっと専門性を高めていかなければ」という思いから、帰国後は、同じASEAN経済を研究している九州大学の清水先生を頼り、働きながら九州大学大学院へ社会人学生として入学し、学位をとることを決意しました。そして時間はかかりましたが、2019年に49歳で博士号を取得しました。これまでの現場での経験・蓄積全てを、博士論文に注ぎ込みました。

――タイ現代史に残るさまざまな場面で経験されたことは、助川先生の人生においてもとても大きな出来事だったことと思います。その後、博士号を取得されたのち、ジェトロを退職されて国士舘大学へと移られたのですね。

 はい、そうです。これまでお話したような、いくつもの大きな出来事を通じて、現場で企業のために働きたいという意欲がますます強くなりました。帰国してからしばらくは、ジェトロのASEAN地域の事業戦略を考える「海外地域戦略主幹」というポジションにいましたが、年齢的に管理職に近づき、現場から離れざるを得ないという環境変化が迫っている一方で、「これからも引き続き東南アジアに関わる現場目線での調査や研究を続けていきたい」という気持ちが強かったため、2017年3月に長年勤務したジェトロを退職し、縁あって国士舘大学へと転身しました。

 

 

 国士舘大学で教鞭を取り、今年で5年目を迎えます。これまで沢山の方々とのご縁をいただき、今では東南アジア経済に関する記事(時事通信社時事速報「ASEAN経済統合の実像」月2本、三菱UFJ銀行のBizbuddyでの「ASEAN経済レポート」月1本)の連載をはじめ、各種業界団体などからの執筆や講演依頼、Yahoo!ニュース公式コメンテーター、さらには日本商工会議所から日本メコン委員会の特別委員就任のお声がけもいただきました。これからも、大学での国際人材育成はもちろんのこと、更に現場目線の調査・研究で学会にも、また産業界にも貢献をしていきたいと思っています。「現場」が僕の原点ですから――。

 

――帰国後も「現場の目線」でどんどん活動の場を広げている助川先生ですが、これからどのようなことをしていきたいですか?

 じつは、2022年4月から1年間、研究のためタイへ渡航する予定です。日タイ経済協力協会(JTECS)の非常勤理事をしていることもあり、泰日工業大学と連携して産業高度化の一環として進めている「自動化・デジタル化」の導入促進などの面で日本・タイ両産業界に貢献していきたいと考えています。日本は少子高齢化先進国であるぶん、日本の知見を活かせる分野だと思うのです。

 

 また、これからも東南アジアをより深くいろいろな側面から研究し、その結果を学生のみならず、企業の海外展開にも役立てることができればと思います。

 まだまだ日本では、東南アジアに関する情報は少なく、知られていないことがたくさんあるので、皆さんの知らない観点からの調査や研究を通じて貢献していきたいですね。

 私にできる活動を通じて、日本やタイの企業や産業界の役に立つことができたら嬉しいです。

📝助川成也語録

◆「東南アジアの魅力は、活気にあふれ、国々が成長している瞬間を肌で感じ取ることができるところ」

 

◆「学ぶべきは、タイ人気質。何事も「完璧」を目指すことはとても重要だが、自分のみならず、部下、そして家族に対して、必要以上に負担をかけかねない。どんな苦境にあっても、最後は、「マイ・ペンライ」(どうってことない。大丈夫!)と言える度量の大きさを持つことは大事」

 

◆「海外の現場に行ってみると、拠点をおいて仕事をしている方々はみなキャリアが長く、その国・地域の事情にも通じている。その中で活躍するには、広く浅い「ジェネラリスト」ではなく、スペシャリストになる必要がある」

 

◆「日本企業がASEANに進出することによって、企業も進出先国も、お互いがWin-Winの関係にならないといけない。自分が出来ることは、現場で働く皆さんの声を相手国政府に伝え、お互いWin-Winの関係構築の橋渡しをすること」

 

◆「人材の育成はもちろんのこと、更に現場目線で、産業界にも様々な貢献をしていきたい。『現場』が僕の原点なのだから――」

 

 

取材・文 向山邦余

写真 大森聖也

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