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2021.08.01
スペシャルインタビュー“プロへの道”

File No.11 【東南アジアのスペシャリスト 助川成也先生】
活気あふれる東南アジアの魅力を、多くの人に伝えていきたい[前編]
東南アジアの魅力に引き込まれた大学時代、そしてジェトロへの道

国士舘大学政経学部教授。1969年、栃木県生まれ。九州大学大学院経済学府博士後期課程修了、博士(経済学)。中央大学経済研究所客員研究員、亜細亜大学アジア研究所特別研究員、国際貿易投資研究所(ITI)客員研究員、東アジア共同体評議会有識者議員。Yahoo!ニュース公式コメンテーター。専門はタイを中心とした東南アジア経済、FTA等の通商戦略。
1992年よりジェトロ(日本貿易振興機構)勤務。タイ・バンコク事務所主任調査研究員、地域戦略主幹(ASEAN)など20年にわたり東南アジア関連業務に従事。2017年に国士舘大学へ。20年に現職。東南アジアの経済・通商戦略など企業向け講演も多数行う。

 大学時代、活気あふれる東南アジアに心を惹かれた助川先生。就職先の日本貿易振興機構(ジェトロ)では計10年にわたるタイでの駐在を経験し、現地に進出する日本企業のサポートなどを行うなかで、数々の重要なプロジェクトを成し遂げました。今回、現在の国士舘大学教授に転進するまでの道のりを、余すことなく語っていただきました。

――この度刊行した『サクッとわかるビジネス教養 東南アジア』は、東南アジアの知識があまりない方でもすんなり理解できるよう、図版やイラストをふんだんに用いてやさしく解説していますね。

 そうですね。東南アジアに興味はあっても、現地へ行ったことのない方は多いと思いますので、そのような方も楽しく理解出来るようにと工夫しました。ぜひ手に取って読んでいただきたいですね。

 

――では早速お話をお聞きしたいと思います。現在、東南アジアのスペシャリストとしてご活躍されている助川先生ですが、海外への興味を抱くようになったのはいつごろからだったのでしょうか。

 前職では教育を海外で受けた職員も少なくないのですが、私の場合、海外へ初めて行ったのは、大学生になってからなんです。それまで海外への渡航経験はなく、外国人との交流というと小学生のころの思い出が唯一あるくらいです。

――小学生のころの思い出とは、どのようなものだったのですか?

 子どものころは栃木県北部の那須山をのぞむ風光明媚な田舎で過ごし、通っていた小学校は田んぼのど真ん中にありました。1学年20人くらいの、こじんまりとした小学校でした。

 

  そこで初めて「外国人」と日常的に接することになりました。小学2年生のころだったと思います。ある日、先生がコロンビアからやって来たオマル・パーラーさんという方を連れてきて、国語の時間、一緒に学ぶことになったというのです。オマルさんは当時30歳くらいで、小学校からほど近いお寺で僧侶の修行をしていました。

 

 オマルさんが修行をしているお寺へたびたび遊びにいくようになり、オマルさんからコロンビアでの生活や習慣、文化の話をいろいろ聞くたびに、「僕もいつか、コロンビアに行ってみたい!」と夢を膨らませたものでした。オマルさんにとって私は、抱きついてきた最初の子どもだったようで(笑)、特にかわいがっていただき、誕生日には野球少年だった私にグローブをプレゼントしてくれたこともありました。5年生の時にコロンビアへ帰国したのですが、その後も何回か文通をしたり、交流を続けました。

――小学校に大人の外国人が留学してくるなんて、珍しいですね。そして素敵な体験ができましたね。

 そうですね。今でも鮮明に覚えていますよ。その後、中学・高校時代は、海外との接点は特にはなく、野球に夢中でした。大学に進学すると、世の中はバブル真っ只中。原田知世さん主演の映画「私をスキーに連れてって」が大流行していた時代です。私もスポーツをスキーに鞍替えし(笑)、とことん、のめり込みました。また、当時は海外へ旅行する学生が多く、バックパッカーに憧れました。私もそのブームに乗る形で、大学2年生のときに初めて海外旅行に行きました。行先はスキーも出来るニュージーランドのクライストチャーチで、スミスさんという方のお宅にホームステイをしました。(なんと、つい最近の話になりますが、スミスさんは、ラグビー・ワールドカップの関係で、2019年大会が開催されるまでの数年間、日本に滞在していました。その間、何度か自宅にお招きいただき、当時の思い出話に花を咲かせました)

 

 クライストチャーチでは、短期でしたが語学学校に通いました。そこには多くの日本人学生がいましたが、何故かタイからの学生も大勢いました。その頃の私は、タイについて、「東南アジアのなかのひとつの国」くらいの印象しか持っていませんでしたが、一緒に学ぶうちに、留学に来ているタイ人は日本では考えられないほど裕福であることを知ったのです。そのレベルは、例えば自宅には家族全員におのおのトイレやバスルームがあるほど。「一体彼らが住む国はどんなところなのだろう?」。そのあたりから東南アジアに対する興味が俄然沸き始めました。

 

 それからというもの、日本からほど近い海外「東南アジア」をもっと知りたくて、旅行先に東南アジアを選ぶようになりました。タイ以外ではシンガポールやミャンマー、インドネシア、フィリピン、更に南アジアにも足をのばし、ネパールなどにも行きましたよ。

ネパールへ旅行したき
山登りも趣味のひとつ

――大学生になって初めて訪れたニュージーランドで、タイへの関心が高まったのは面白い展開ですね。そこでの経験がその後のジェトロへの就職とつながったのでしょうか。

 そうですね。文章を書くことも好きだったので、新聞社などメディアも考えましたが、最終的に大学で学んだ経済学を生かせ、仕事で海外にも行けそうな就職先としてジェトロに決めました。

――ジェトロではどのようなお仕事をされたのですか?

 ジェトロに就職が決まった後、日常的に外国人と接するなど、外からは華やかに見える「国際交流部」への配属を希望したのですが、実際に配属されたのは経済情報部という調査部門でした。

 そこでは世界の貿易や投資の動向を分析して、その内容を貿易白書や投資白書としてまとめていました。私は貿易や投資に関するデータを分析したり、研究レポートを書くほか、次の白書のネタ探しの一環でタイ、シンガポール、マレーシアなどへ行っては経済界の方々の声を集めたり、そこに進出している日本企業を訪問してインタビューを行ったのですが、この経験は今に続く仕事の基礎となりました。

 

 その後、1995年1月に大阪本部で展示会など事業を行う国際交流センターに異動してからは、海外と日本の企業とをつなぐ役割を担うことになりました。海外から来た方々を、小さいながらも「オンリーワン」の会社が山ほどある西の産業集積地・東大阪へ連れていって勉強してもらったり、日本の環境技術を学んでもらったり、日本の展示会に連れていったり……。

 

 そのなかで、ある建築材料展示会への出展者に事前説明をするためにブラジル(それも広大なブラジルの主要な地方都市)にも行きましたが、そこで感じたブラジルの雰囲気は、東南アジアとはまた一味も二味も違うもので、これまた刺激的でした。まさに「太陽の国」という言葉にふさわしい、陽気で小さなことは気にしない国民性に強く魅かれた私は、「将来の駐在先として、タイかブラジルを希望しよう!」と思ったほどでした(笑)。

 

 こうして、大阪で中小企業の国際化の一端を担うべく、企業回りを中心に2年半ほど過ごした後、一旦は東京本部で産業調査担当部署に転属になりましたが、それから間もなく、ついに「タイ駐在」の内示をいただきました。希望する調査業務の担当ではなく、総務全般担当でしたが、それでも海外で、それもタイで働ける機会にわくわくし、結果的に6年近く過ごすことになったのです。

――念願のタイ駐在ですね! そこでの生活はいかがでしたか?

 観光や出張で訪れた時とは異なり、住んでみてわかることも多々あって、すべてが新鮮で刺激的な日々でした。赴任したのは1998年半ば。ラマ9世のプミポン前国王の時代で、当時、治安は非常に安定していました。前年に発生したアジア通貨危機の影響で、国内は相当疲弊していたはずなのに、人々は明るく街には活気がある。その勢いは「経済的にはどん底なのに、なんでこんなに活気があるのだろう?」と思うほどでした。現地に住んだことによって、アジアの成長の源泉を全身で感じることができたのです。

 

 そんな中でのタイでの業務。事務所の運営などが中心の総務業務を一通りこなし、慣れてくると、それだけでは物足りなくなった私は、ジェトロが担うべきと感じた業務を自ら発案し、仕事の領域を増やしていきました。

――どのような仕事を開拓されたのですか?

 特に力を入れて取り組んだのは、日本企業のタイ進出支援と、在タイ日系企業の事業活動支援です。なかでも、多くの方々から話を聞く中で発案した「ビジネスサポートセンター」を2000年に立ち上げたことは、私の最初のバンコク駐在で最も大きな出来事でした。

 

――ビジネスサポートセンターはどのような目的で立ち上げたのですか?

 当時のタイは、チュアン政権が海外への輸出促進と投資誘致を両輪として、アジア通貨危機からの復活に取り組んでいましたが、1999年の訪日の際に小渕首相と会談し、日本側へ投資視察団の派遣を要請しました。この要請を受けた小渕首相は、「ジェトロ理事長を団長とする投資ミッションの、タイへの派遣を約束する」と返答しました。

 

 そして約束は実現されました。最終的に120人規模にまで膨らんだ投資ミッション一行は、約束実現の報告のため首相官邸にチュアン首相を訪ねると、チュアン首相は団長のジェトロ理事長に対して、日本企業のタイ進出への支援強化を要請したのです。そこでチュアン首相からの要請を受け、ジェトロバンコク事務所に付設する形で立ち上げられたのが「ビジネスサポートセンター・タイ」(BSCT)です。協力を要請されてから半年以内の開設が約束されました。

 

 「ビジネスサポートセンター・タイ」開設に向け、タイへの投資を考えている企業と数多く接し、情報収集している中でわかってきたことは、「タイ語」という言葉の相違から派生するさまざまな手続きにかかる問題点でした。現地の情報が得にくいこと、手続きをする上で不透明な点が多いことは、進出準備段階での負担やリスクとなっていました。そこで、それらの問題点の解決方法を指南しながら、中小企業の海外進出を準備段階から目標達成までを総合的にサポートする「ワンストップサポートセンター」設置を発案したところ新規事業として採択され、それから設立準備を進めました。

――その後、2000年に開設されたビジネスサポートセンター・タイですが、そこで行っていた支援の内容とは具体的にどのようなものだったのですか?

 「ビジネスサポートセンター・タイ」(BSCT)は、日本の企業の方々がタイへ入国してからすぐに進出の準備に取りかかれるよう、会社設立準備のための事務所として2000年7月に設立されました。各企業用に計9部屋を設けましたが、ハード以上に重要なのは、ソフト面での支援体制です。その支援メニューについて、多くの民間企業の方々から寄せられるニーズや困りごとなどの声を参考に、試行錯誤をしながら作っていきました。

 

 具体的には、すぐに相談できるよう投資アドバイザーを常駐させたほか、「失敗しない投資」を目的に、タイでの会社設立手続きから、労務管理や税務手続き、物流・通関事情など、事業の立ち上げから運営に関する知識をひと月で集中的に学べる少人数制の講座を月間で最大9講座設置しました。

――ビジネスサポートセンターを立ち上げた感想をお聞かせください。

 講座設置に際しては、バンコク日本人商工会議所の専門部会の皆様に助けていただき、多くの方々の協力を得て、事業化することができました。

 

 多くの企業をサポートしていく中で、私自身タイや投資に関する知識を身につけることができたこと、入居企業と一緒に会社設立に向けた活動をしたことで、企業がどのようなことで悩み、苦しんでいるのかを直に知ることができたこと、そして様々な情報や人が集まる企業進出の最前線にいられたことは、その後の私にとって大きな財産となりました。

 

 開設から約20年が経過しましたが、その間、このセンターから巣立っていった企業は約300社にのぼります。また、このサポートセンターでの事例がモデルケースとなり、その後ジェトロはベトナム、ミャンマー、インド、フィリピンなどにも次々と同様のセンターを立ち上げていきました。各国政府も雇用を生み出し、技術移転が期待出来る日本からの投資は大歓迎でした。試行錯誤しながらも、日本企業だけでなく、現地政府からも期待される事業を立ち上げることが出来、本当にやりがいがありました。

――ビジネスサポートセンターを立ち上げ、企業の悩みや苦しみを知ることができたというのは、まさに現地で仕事ができたからですね。

 そうですね。まさに現場の声を直接聞くことができたのは、自分にとってとても意義のあることでした。

 

 そして、この仕事を通じて大きく2つのことを学びました。

 1つ目は、専門的な深い知識を身に付けることがいかに重要であるか、ということです。私がジェトロに入った時には、何にでも対応出来る「“ジェネラリスト“を目指せ」と言われました。しかし、海外の現場に行ってみると、拠点をおいて仕事をしている方々はみなキャリアが長く、その国や地域の事情にも通じている。実際に現地で仕事をしてみてわかったことは、専門的な知識を持つことがいかに重要であるか、また企業側もそれに期待しているということでした。「ジェネラリスト」の浅く広い知識では、企業の事業展開を十分にはサポートできません。

 

 2つ目は、タイ人のおおらかな気質です。仕事で何事も「完璧」を目指すことはとても重要です。しかし、自分のみならず、部下、そして家族に対して、必要以上に負担をかけかねません。どんな苦境にあっても、最後は「マイ・ペンライ」(どうってことない。大丈夫!)と言える度量を持つことで、常に場を笑顔に、そして前向きに方向付け出来ることを学びました。

 

 

 こうして目まぐるしくもやりがいを感じながら仕事に取り組み、5年9カ月の駐在を終えて、東京本部に戻ることになりました。「専門性をつけて、いつの日か、またタイに戻る」と決心して、帰国しました。

日本をタイを結ぶ重要な任務を果たした助川先生。さらなる展開はいかに? <後編へ続く(8月5日配信予定)

 

取材・文 向山邦余

写真 大森聖也

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