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2022.01.10
鎌倉時代に活躍した歴史上の人物を知ろう!

第1回 【源頼朝(1147~1199年)】
各地に存在した武士団の頂点に立つ鎌倉幕府を開いた男

  1月9日から、小栗旬さん主演のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がスタートしました。そこで今月は、人物で読み解く日本史365人』(佐藤優監修)より、ドラマに登場する歴史上の人物のなかから数名をピックアップして紹介します。今回は、大泉洋さん演じる源頼朝です。どんな人物だったのか、ぜひ覚えてくださいね。

源頼朝ってどんな人?

 平安時代末期、関東の武士たちを従えて、朝廷を牛耳っていた平氏を打倒し、朝廷から独立した武家政権・鎌倉幕府の初代将軍となった人物。

 

 なお、かつては鎌倉幕府を「初めての武家政権」と評したが、近年は平清盛が朝廷においてすでに武家政権を構築していたという考え方が主流となっている。

頼朝の生い立ち

 頼朝は第56代清和天皇を祖とする清和源氏の中でも、河内国を本拠地とした河内源氏の棟梁・源義朝の三男として生まれるが、1159(平治元)年に起きた平治の乱で義朝が平清盛に敗れたことから、義朝の嫡男であった頼朝も罪人として捕らわれ、処刑される予定であった。しかし、当時の頼朝は13歳の少年であったことから、清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)が哀れに思い助命嘆願をしたことで一命を救われ、伊豆国(主に現在の静岡県伊豆半島)に流罪になった。

 

 頼朝の配流先は伊豆国の豪族・北条時政の本拠地である蛭ケ島。現地では流人とはいえ行動の自由が比較的許されており、頼朝は伊豆国や相模国(現在の神奈川県の大部分) の武士たちと交流し、信頼関係を築いていったという。また、都で頼朝と親しかった下級貴族の三善康信のおかげで、朝廷での最新情報を頻繁に入手できたという。

偉大な祖先・源義家とも縁が深い鎌倉へ

 1180(治承4)年に以仁王(もちひとおう)(後白河法皇の第三皇子)が平氏打倒の令旨を発して源頼政とともに挙兵すると、時政の長女・政子を妻に迎えた頼朝はこれに呼応し、北条氏の援助を受けて伊豆の目代・山木兼隆を討ち取った。この時、頼朝軍が掲げた源氏の白旗の横上には、以仁王の令旨が取り付けられていたという。やがて頼朝は世に名高い名将の畠山重忠らを味方に引き入れると、偉大な祖先・源義家とも縁が深い鎌倉に入る。

 

 「八幡太郎の直系の子孫」というブランドが唯一の特徴といってもよい頼朝を、関東の 武士たちが支持した原因の一つに、現状に対する彼らの不満が存在した。

頼朝以前の首領たちの手法とは?

 頼朝以前の首領たちの手法は、朝廷からもらった高い位階や官職の威光で地方の人々を従えるというものである。その実態は年貢ばかりを持っていき、肝心の侵略の被害から民衆は守ってもらえない状況だった。そのため、朝廷での地位はほとんどないが、武士としての血筋は抜群によく、北条氏という土着豪族の娘を妻に迎えていた頼朝は農村武士団の新しい首領として格好の人材だったのである。

まずは関東支配を!

 こうして台頭してきた頼朝を討つために、平氏が平維盛(たいらのこれもり)を派遣して両軍は富士川(現在の静岡県富士市)で対峙するが、平氏軍は夜間に響いた水鳥の羽音を敵の夜襲と勘違いし戦わず逃亡してしまう。その醜態を見た頼朝は敵を追いかけそのまま上洛しようとするが、三浦義澄らの忠告を聞き入れ、まずは関東支配を固めることに専念。そこで武士たちを統率する機関「侍所」を設置し、その別当(長官)に和田義盛を任命した。

 

 その結果、1183(寿永2)年に「寿永二年十月宣旨」が発給され、頼朝が東海道・東山道を管理下に置くこと、つまりは関東を支配することを朝廷が認めたのである。これを受けて、1184(寿永3)年に頼朝は異母弟・義経を自身の代官として加えた平氏追討の軍を派遣し、翌年には壇ノ浦の戦いで平氏一門を滅亡させる。この間、頼朝は鎌倉で文書の作成や財政を担当する機関「公文所」と、訴訟・裁判機関である「問注所」を設置し、幕府の実務体制をさらに推し進めていった。

鎌倉側の統一を維持するためにしたこととは?

 ところが、平氏討伐の功労者である義経に鎌倉側の思惑を無視した行動が目立つようになる。これは朝廷の最高権力者である後白河法皇が、頼朝の実権を削ぐために義経を利用したためとされているが、事態を重く見た頼朝は後白河法皇に迫り、義経追討の院宣を出させることで鎌倉側の統一を維持したのである。さらに、舅である時政たちを上洛させ、全国の武士たちの反乱防止策として「守護」と「地頭」の設置を後白河法皇に承認させたうえ、親義経派の院近臣の解官・配流を要求したのである。

 

 御家人の監督や治安維持を司る警察組織ともいえる守護と、年貢の取り立てや土地の管理を司る地頭の設置により、頼朝が率いる鎌倉側の支配は平氏の影響力が強かった西国にまで及ぶようになった。

鎌倉幕府の誕生

 そして、1189(文治5)年に逃亡していた義経を匿っていた奥州藤原氏を攻め、約10 年にわたる源平の争乱を収束させた頼朝は、その翌年上洛して後白河法皇と二人きりで会談を行い右近衛大将に任命されるがこの官職は朝廷への出仕義務があったことからすぐに辞官してしまう。すると、今度は1192(建久3)年に征夷大将軍に任命されたのである。そして鎌倉幕府が成立したことで、そのトップである征夷大将軍の役職は、すべての武士の頂点に立つ「武家の棟梁」の肩書きになった

 なお、かつては頼朝が征夷大将軍に就任した1192年が鎌倉幕府の誕生した年とされてきたが、近年は①侍所の設置(1180年)、②寿永二年十月宣旨(1183年)、③公文所と問注所の設置(1184年)、④守護・地頭の設置(1185年)、⑤右近衛大将就任(1190年)、なども鎌倉幕府の成立時期とみなすさまざまな説が唱えられている。

出典 『人物で読み解く日本史365人』

本記事は、上記出典を再編集したものです。(新星出版社/向山)

源頼朝デジタル画像  国立国会図書館ウェブサイトから転載

 

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佐藤優(サトウマサル)
1960年、東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。
1985年に同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省に入省。在英国日本国大使館、在ロシア連邦日本国大使館に勤務。その後、本省国際情報局分析第一課で、主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕、起訴され、2009年6月に執行猶予付き有罪確定。2013年6月、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失った。『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞。
『読書の技法』(東洋経済新報社 )、『勉強法 教養講座「情報分析とは何か」』(KADOKAWA)、『危機の正体 コロナ時代を生き抜く技法 』(朝日新聞出版)など、多数の著書がある。

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