File No.10
【服飾デザイナー 清松加奈子先生】
祖母に教わったお裁縫がすべての原点だった
[前編]
バンタンデザイン研究所在学中からインディーズブランドkanako inoueとしてデザイン活動をはじめる。1998年中国北京へ渡り、中央民族大学へ留学。日本帰国後、2014年よりオリジナルブランドcanaco_を、 2019年よりKAAMをスタート。またその傍ら、手縫いやものづくりの楽しさを多くの人に伝えたいと、リメイクレッスンや手 縫い教室を開催している。『まいにちスクスク』(NHK)などのメディアでも活躍中。
https://canaco-shop.com/about/
NHKのテレビ番組をはじめとするメディアでも活躍中の清松先生。オリジナルブランドを立ち上げ、おしゃれな服を次々と生み出していますが、そのすべてが「日常的に気楽に着られるもの」。またデザイン活動だけでなく、リメイクや手縫い教室も開催。簡単に作れるレシピを提供し、ハンドメイドの楽しさを多くの方に伝えています。今回、清松先生にこれまでの道のりをお話しいただきました。
――このたび『子ども服の教科書』を出版されましたが、かんたんに作れるものが多く、なかでもてぬぐい1枚でパンツが作れたり、ハンカチ1枚でスカートが作れるのはとても魅力的ですね。
今回、この本を刊行するにあたり、どこまで難易度を下げられるか? を一番に考えました。家にミシンがない方や、裁縫道具がそろっていない方でも気軽に作れるようなアイテムも紹介していますので、本を見ながら作っていただけると嬉しいです。
――ではさっそくお話をお聞きしたいと思います。清松先生がこの分野に興味を持たれたのはいつ頃からだったのですか。
お裁縫は、子どものころから好きでしたね。祖母がとても手先が器用で、何でも作れる人だったので、その影響が大きかったです。祖母のほうから細かく教えてくれることはありませんでしたが、見ながら作ったものをとにかく褒めてくれました。褒められて喜んで、ますます好きになっていきました。小学校低学年のころは編み物も好きで、マフラーやポシェットも作りました。
また、私は熊本県天草市出身なのですが、環境にも恵まれていたと思います。小物を作っては近所のおばちゃんや文具店の店長さんなどに渡していました。すると「上手にできたねえ! ありがとう」と褒めてくれて。スーパーマーケットに持って行って店長さんに渡すと、店内に飾ってくれたりもしました。そんな温かい環境のなかで、周囲の大人に褒められておだてられたおかげで、もしかして私ってお裁縫が得意なのかも? と思うようになり、小さな自信へとつながっていきました。
その熱は冷めることなく続きました。中学生になると洋服作りに興味が出始め、自分に合うものにリメイクしたり、どのように服が作られているのかを知るために、既製品を分解してみたり。高校生になると、そこからさらに楽しさが増していきました。友人や先生方の協力を得て、文化祭のオープニングで単独ファッションショーを開催したりもしました。
――好きな道を猛進というかんじですね!
はい、とにかく突き進んでいきましたね(笑)。そしてここで大きな出来事が起きました。授業中、ノートに描いたデザイン画が、熊本のモード学園のコンテストで入賞したのです! これを機に、服飾の世界で生きていきたいという気持ちになり、高校を卒業した後、上京して中目黒にあるバンタンデザイン研究所へと進みました。
――その当時のエピソードを教えてください。
バンタン研究所では専門的なことが学べましたし、成績も良かったです。とにかく手作業が速かったので課題はすぐに終えてしまい、物足りなくて放課後になると先生をつかまえてはさらに知りたいことを教えていただきました。在学中からインディーズブランドkanako inoueとして活動していましたが、次第に作品に対してあるこだわりを持つようになりました。それは「いくらいいデザインであっても、日常的に気楽に着ることができなければ意味がない」ということ。着ることができなくても表現できればいい、という考え方もありますが、私は普段着として使える服を作りたい、という気持ちを強く持つようになりました。
またアルバイトでは、デザイナーズブランドのコレクションなど、企業からの外注パターンを引いている先生のアシスタントを経験することができました。先生がパターンを引くところを見たかったので、掃除や下準備を事前に一通り済ませ、先生が実務作業をしている間、食い入るように見ていましたね。1年間くらい続けましたが、とてもいい勉強になりました。
こうして専門知識や技術を身に着けていくなかで、私の関心は中国へと向かっていきました。私はカンフー映画が大好きで、あの激しいアクションシーンを観るにつけ、破れない洋服の作りってどんな風になっているんだろう? と興味を持っていたのですが、専門学校で学ぶなか、既製品を製造する現場を実際に見てみたいと思うようになりました。縫製工場が中国に多いことから、留学を決意。思い立ったが吉日とばかりに早速荷物をまとめていったん実家へ戻り、中国行きの資金を貯めながら日本の文化も学んでおこうと、別府にある一番古い老舗旅館で働くことにしました。半年から1年くらいかけてお花の生け方、お掃除の仕方、畳の上の歩き方といった礼儀作法や日本の食文化の知識などを一通り学ばせてもらい、資金の目処がついたと同時に中国語の小さな本を1冊片手に中国へ渡りました。
――やりたいことをやる。すぐにできなければそこまでの手段と方法を自ら考えて実行に移す。決断力と行動力がものすごいですね。
振り返ると自分でもそう思います(笑)。当時22歳くらいでしたが、飛行機のなかで中国語の本を見ながら、生活に必要な最低限の言葉を紙に書き出して……。行き当たりばったりでしたよ。北京に降り立ち、タクシーに乗り込んだら、つたない語学力に運転手さんが驚き、親切に学校の中まで案内してくれたほどでした(苦笑)。
――意を決して中国へ渡った清松先生。その後どのような出来事に遭遇したのでしょうか……?
⇒つづく 次回(6月10日予定)の配信をお楽しみにーー
取材・文 向山邦余