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2021.09.01
スペシャルインタビュー“プロへの道”

File No.12 【物理学のスペシャリスト 川村康文先生】
次世代へのバトンを渡すために教育者としてできること

川村康文
1959年京都市生まれ。京都教育大学卒業。京都大学大学院エネルギー科学研究科エネルギー社会環境学専攻 博士後期課程修了。京都教育大学付属高等学校教諭、信州大学教育学部助教授を務めたのち、東京理科大学理学部物理学科教授。博士(エネルギー科学)。

【詳細プロフィール】
専門は物理教育・サイエンス・コミュニケーション。高校物理教師を約20年間務めた後、信州大学教育学部助教授、東京理科大学理学部第一部物理学科助教授・准教授を経て2008年4月より現職。

慣性力実験器Ⅱで平成11年度全日本教職員発明展内閣総理大臣賞受賞(1999),平成20年度文部科学大臣表彰科学技術賞(理解増進部門)をはじめ、科学技術の発明が多く賞も多数受賞。論文多数。著書は「基礎物理学 上・下」(ソフトバンク)、「独創性を育てる理科教育法」(講談社)、「たのしく学べる理科の実験・工作」(エネルギーフォーラム)、「世界一わかりやすい物理学入門」(講談社)、「園児と楽しむおもしろ実験12か月」(小林尚美さんと共著)(風鳴舎)など多数。

歌う大学教授(環境保護ソング、世界平和を祈る歌など、ホームページで無料配信中。http://www2.hamajima.co.jp/~elegance/kawamura/song.html)。
2011年3月11日の東日本大震災を受けて“つながる思いプロジェクト”を立ち上げ、震災復興応援の科学実験教室など出前行っている。講演では、作詞・作曲した「つながる思い」を必ず歌を歌う。
NHKEテレ・ベーシックサイエンスの監修および出演。Eテレテストの花道・ニューベンの理科実験の監修。
過去のTV出演:所さんの目がテン/NHK Eテレ 高校講座ベーシックサイエンス 監修とガリレオ先生として出演。著書多数。

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 最近では、NHK 『チコちゃんに叱られる!』にも出演され、物理学をこどもにもわかりやすく説明する川村先生。関西弁で軽快に語るそのテンポは、見る者をぐいぐいと引き込んでいきます。20年以上にわたり高校教師として勤務されたのち、信州大学を経て現在は東京理科大学で教鞭を取っている川村先生に、これまでの道のりをお話いただきました。

――川村先生といえば物理学のスペシャリストですが、こどものころはどのようなことに興味を持っていたのでしょうか?

 幼いころは、家の中にいるよりも、外に出るほうが好きでしたね。外といっても屋根の上(笑)。太陽の光を浴びながら、ぼーっとするのが好きで。母からは「屋根から落ちるからやめなさい!」父からは「あいつはアホだ」なんて言われていました(笑)。

 

 小学生1、2年生までは机に向かって鉛筆を持ち、何かをするということが苦痛でした。そんなわけで、勉強はできるはずもなく、たまたま2年生のときにテストで100点満点を取ったら、担任の先生から「隣の子の答案用紙を見たんだろう?」などと言われたくらい……。それほどできませんでしたね。

 

 

 子どものころ一番興味があったのは、昆虫です。かの有名な養老孟司先生が、少年時代に昆虫好きだったそうですが、私も同じ(笑)。バッタの跳び方を観察していたのをよく覚えています。なかでもとくにキリギリスに興味を惹かれ、どうやったら捕まえられるか、あの手この手で考えていました。バッタやコオロギは簡単に捕まえることができたのですが、どうしてもキリギリスだけは捕まえることができなくてね。キリギリスって、のんびりとギーギー声を立てていると思いきや、動きがものすごく速いんですよ。

――自然に囲まれた環境ですくすくと成長された川村先生の幼少時代が目に浮かぶようです。勉強がきらいだったとのことですが、その後はいかがでしたか?

 それまでのんびりした少年時代を過ごしていましたが、あるとき転機が訪れました。あれは夏の臨海学校に行ったときのこと。朝から夕方まで海で水泳をメインにして過ごすのですが、そこで誰が日焼けして真っ黒かを競う、日焼けコンテストで賞をもらうことができたのです。このときに、生まれて初めて自分が選ばれるという体験をしたのですが、とっても嬉しくてね、これを機に目立ちたがり屋になっていきました。今まで大嫌いだった勉強にも意欲が出てきて、頑張ってみよう! と思うようになりました。そこからですね。勉強にも精を出すようになったのは。やり始めたら成績もぐんぐん伸びていきました(笑)。

――選ばれる経験というのは大きいですよね。そこから今の川村先生へとつながっていくのですね。

 そうですね。中学生になると、将来の夢へとつながる出来事がありました。当時は北山修さんや加藤和彦さんのフォークソングが大流行していました。北山修さんが作詞をした『戦争を知らない子どもたち』という曲は多くの方が知る名曲ですが、ちょうど祖母から北山修さんが書いた同タイトルの小説を手渡され、読んでみたところ、大きな影響を受けました。「歌に思いを込めて人に伝えたい。自分も大学生になったら、バンド活動をしよう! それが人生だ!」とまで思うようになり、その思いはずっと変わりませんでした。そしてついに大学へ入学するとともに念願のバンド活動を始めました。

大学時代には、念願のバンド活動を実現

――ついに念願のバンド活動への夢も叶えられたのですね。その後はどのような道を歩まれたのでしょうか。

 バンド活動はとても楽しく、仲間のなかにはプロになった人もいましたが、私はなれませんでした(笑)。大学在学中にバンド活動をするためにはお金も必要でしたから、アルバイトで塾の講師をしたのですが、塾の経営者に「教えるのうまいね」などといわれ、舞い上がってしまいました。そしてそこから教育の道を歩みだし、卒業後は紆余曲折を経て高校の教員になりました。子どものころに昆虫が大好きだった私は、それからも理科が得意だったのですが、特に物理が好きだったのでその道を選ぶことにしました。

 

 ここで面白いエピソードをひとつ。ある日、銀行に行った時のこと。順番待ちをしながら、そこに置かれていた雑誌を読んでいたら、ある特集に目が留まったのです。それは一言でいうと、「新人類は変わっている」という内容の記事だったのですが、そのなかに、「夜のアルバイトをしていた女子学生が一流企業のOLになったり、バンド活動に明け暮れていた若者が教師になったり……」という一文が書かれていて。思わず「これって俺のことか?」と。

 ある日、勤務先の校長先生にその話をしたところ、「川村先生は、新人類ではないけど、珍人類だね」と言われて愕然としたことを覚えています(笑)。

教員時代の川村先生。エッフェル塔の前で

 そんな冗談話はさておき、教員になってからある一つの目標を立てました。それは、30歳になるまでに何か1冊分のまとまった原稿を書いて世に出してみたい、ということでした。理科の分野で世界的に有名なアインシュタインや湯川秀樹先生は、27~28歳でノーベル賞の論文を書いていましたからね。ならば同じ理科を専門とし、教員という道を歩き続けている自分も何か行動に移してみたいー。そんな気持ちが沸き上がり、これまで授業用に工夫して作成してきたプリントを見直してみたのです。その枚数はなんと1000ページ以上ありました。そこでそれを精査してまとめ上げ、1989年に『エレガンス物理』というタイトルでルガール社から出版しました。

 

 それを機に、いくつかの出版社から声がかかり、参考書の図版を書き直したり、教科書ガイドを執筆するなどしたのち、35歳くらいのときに高校の物理の教科書を執筆するに至ったのです。そして1993年、ゆとり教育の世代が使用する教科書として刊行されました。

ーーこの時代の教科書は、それまでの詰め込み式といわれていた世代と比較すると教科書の厚さも違いますね。

 

 そうですよね。ゆとり教育時代の教科書は詰め込み式教育世代のものと比べると格段に薄いですね。賛否両論あって今は行われていませんが、私は賛成派でした。というのは、長年教員をやってきて様々な生徒を見てきましたが、ちょうど第二次ベビーブーム世代が大学を受験する時代、まさに詰め込み式教育世代の生徒が受験戦争とも呼ばれた大学受験へのストレスから体調を崩してしまったところを目の当たりにしたのです。

 

 その生徒の親から聞く話によると、「食べるものも食べられず、減った体重は戻らない。ホルモンバランスも崩れて生理も止まってしまった。寝なさいと言っても寝ずに勉強している…。そのうちに円形脱毛症になってしまい、その部分を隠すのに毎日必死になっている」とのこと。みるみるうちに変わっていくその生徒を見ていて、「このようにストレスを感じているのはこの子だけではない。こうした詰め込み学習は体だけでなく心の健康にも悪影響を及ぼすのではないか。将来、日本の社会を動かしていく彼らがこのような状態にあっていいはずがない、と感じたのです。そのような理由から、私はゆとり教育に賛成していましたが、世間からはゆとり教育が非難されるようになってしまいました。数学者して有名な秋山仁先生も賛成派と知り、同じ考えの先生がいることで救われた気持ちになりましたが、日本の国全体で見ると学力の全体的な低下から失敗という結果になったとされています(私は、オリンピックで活躍する選手やいろいろなことで才能を発揮している若者が増えたので、失敗と思っていないのですが……)。

――たしかに、ゆとり教育のあと、脱ゆとり教育といわれる時代になりましたね。じっくりと考える思考力を高める学習と、知識を習得する学習とを両立させることは難しいことなのでしょうか……。

 

 これまで川村先生ご自身が物理学を学び、教えていかれるなかで、教育方法について何か感じたことはありますか?

 

 私が物理を専門にした理由は、先ほどお話ししたように子どものころから理科が好きだったということのほかに、ある一つの出来事があります。

 

 話は高校時代にさかのぼります。今でもよく覚えているのですが、通っていた高校で物理を学んでいたとき、先生に「運動エネルギーの式で(1/2)がつくのはどうしてですか?」と質問してみたのです。すると、先生からは「それを覚えておけば京都大学にだって入れるんだから、覚えればいいんだ」というような返答しか返ってきませんでした。

 

 物理という学問は、もともとは自然界にある法則をデータ化するもので、それは科学の探求を基に導出されるものなんですよね。なので、理屈が知りたかった私はその先生の答えに納得することができなかったのです。

 

 このときの気持ちは教員になってからも消えることはなく、「日本には物理学のスペシャリストはたくさんいるけれども、物理教育をしっかりと学んできた人はどのくらいいるのだろう? これまで日本はアジア圏で科学技術先進国として発展してきたが、これからそれを後輩たちにバトンをうまくつないでいかなければならないのに……。それができなければ、この先他国にどんどん抜かれていくだろう」という思いでいっぱいになりました。

 

 そこで、物理学を専門的に学ぶ少数の人だけではなく、もっと幅広く、だれもが楽しく物理を学べるような環境をつくっていきたい、と考えるようになりました。

慣性力実験器Ⅱで平成11年度全日本教職員発明展内閣総理大臣賞を受賞(1999)

――実際に、物理という言葉を聞くだけで難しそうと思ってしまう人は多いですものね。

 そうなんですよ。その後、高校の教員から信州大学へと職場を移し、日本の民間企業ともかかわるようになったのですが、ある企業の会長から「わが社はグローバル企業ではあるが、まずは日本の企業なのに、社内でコンペを開くと日本のエンジニアが提案する内容よりも、ほかのアジアの国々のエンジニアが提案するものが勝ってしまう。日本の理科教育が悪いのではないか? 日本の理科教育のどこが良くてどこが悪いのかを研究してみてほしい」とさえ言われたこともあり、どうしたら面白さを伝えられるか? どうしたらより分かりやすく説明できるか? そこを教育者として学んでいく必要があるのだと痛感しました。

 

 物理学というとその言葉を聞くだけで苦手意識を持たれがちですし、実際のところ、日本のなかで物理を専攻する人の割合が少ないのも確か。もっと多くの人に触れてほしいと常々思いながら活動しています。

 そして次なる教育者となる第二走者、第三走者層を厚くし、しっかりとバトンを渡せるよう、できるだけのことをしていきたい。それが私の課題であり使命であると感じています。

――次世代へのバトンを渡すというのは大きな仕事ですね。そして物理をあまり知らない人にもやさしく解説し、層を広げていきたいという川村先生の思いは、本の執筆やテレビなどメディアへの出演にも表れていますね。

 はい、そのために頑張っています。今回出版した『物理キャラ図鑑』も、まさにその目的があって企画したものです。先に刊行された英語のキャラ図鑑シリーズを見て、物理もみなさんに楽しんでもらえたらと提案しました。物理をキャラで解説するなんて、斬新なアイデアでしょう。楽しく学べると思いますので、ぜひ読んでみてくださいね。

 

 

 それから、今も趣味で音楽も続けています。この写真に写っているのは、以前、飯田橋駅前にあるショッピングモール、ラムラで開いたコンサートのポスターなんです。

 

 これからもギター片手に歌い続けていきますので、応援してくださいね。物理をテーマにした曲もありますのでぜひ聴いていただけたら嬉しいです!

 

 

『リサイクル7』をうたい、プラスチックの解説をしている川村先生

♦川村康文先生のホームページは👉こちら   YouTubeチャンネルは👉こちら

 

 

 

📝川村康文語録

◆「物理という学問は、もともとは自然界にある法則をデータ化するもので、それは科学の探求を基に導出されるもの。単に公式だけを覚えるのではなく、理屈を理解することは大事なことだと思う」

 

◆「日本には物理学のスペシャリストはたくさんいるけれども、物理教育をしっかりと学んできた人はどのくらいいるのだろう? これから後輩たちにバトンをうまくつないでいくためには、物理学を専門的に学ぶ少数の人だけではなく、もっと幅広く、だれもが楽しく物理を学べるような環境をつくることが重要である」

 

◆「物理学というとその言葉を聞くだけで苦手意識を持たれがちだが、もっと多くの人に触れてほしい。そして次なる教育者となる第二走者、第三走者層を厚くし、しっかりとバトンを渡せるよう、できるだけのことをしていきたい。それが私の課題であり使命であると感じている」

 

 

取材・文 向山邦余

取材時写真撮影 大森聖也

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