2023.01.01

🏯織田信長のもとで頭角を現し、後継者となった豊臣秀吉(1537~1598)とはどんな人物だったのか?

 2023年のNHK大河ドラマは、松本潤さん主演の「どうする家康」です。徳川家康、織田信長とともに「三英傑」の一人といわれる豊臣秀吉とはどのような人物だったのか? 『人物で読み解く日本史365人』(佐藤優  監修)から、学んでみましょう!

貧しい身分から一代で天下人になった奇跡の成り上がり
信長に気に入られたことで出世

 安土桃山時代に活躍した武将で、織田信長のもとで頭角を現し、信長の死後はその後継者となり天下人にまで上り詰めた人物。尾張国の中村(現在の名古屋市中村区)で貧しい家の子として生まれた。父親は農民とも、足軽だったともいわれるが、実は出自について詳しいことはわかっていない。はじめは木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)と名乗り、後に羽柴(はしば)秀吉、豊臣秀吉と名を変える。

 

 信長に足軽として仕え、清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受け、持ち前の機転と行動力によって大きな成果を挙げた。信長に気に入られたことで出世し、北近江を支配する浅井長政との戦いで活躍したことで、1573(元亀4)年に浅井氏が滅亡するとその旧領を与えられ長浜城主となる。

信長亡き後の秀吉

 信長の命で各地を転戦し、毛利氏を討つために中国地方へ遠征。毛利氏と対陣している最中の1582(天正10)年、本能寺の変が起こった。

 

 信長死去の報を受けるとすぐに毛利氏と講和し、全軍で京都へ取って返した。甲冑をつけた2万以上といわれる大軍で、通常なら1カ月はかかるという備中高松城(岡山市)から京都までの約230キロの行程を、わずか10日ほどで踏破した。

 

 この奇跡的な大行軍は「中国大返し」と呼ばれる。あまりに驚異的なスピードであることから「明智光秀が謀反を起こすことを知っていて事前に準備していた」「海路を使った」「そもそも中国大返しのエピソードは手柄をアピールしたい秀吉の誇張や後世の創作が混じっている」など、現在もさまざまな説が考察されている。

天下統一へ

 信長に謀反を起こした光秀を山崎の戦いで破り、その軍功によって織田家中で存在感を増し、清洲城で信長の後継者などを決める会議(清須会議)が行われ、信長の孫にあたる三法師(のちの織田秀信)の後見役となることで実質的に信長の後継者レースに名乗り出た。

 

 さらに、対立していた織田家重臣の柴田勝家を1583(天正11)年の賤ヶ岳の戦いで倒し、織田家を二分する激戦に勝利したことでその地位を不動のものとし、同年、秀吉は本拠となる大坂城の築城に取りかかっている。

 

 1584(天正12)年には、織田信雄・徳川家康の連合軍と対決する「小牧・長久手の戦い」で敗北を喫するが、巧みな交渉術によって家康を配下とする。

 

 その後、朝廷への工作に力を入れ、関白・太政大臣の位を得て豊臣秀吉と名乗り、諸大名を従わせながら抵抗勢力の征伐を開始。1585(天正13)年に四国の長宗我部氏、1587(天正15)年には九州の島津氏を下し、西国一帯を支配下とした。1590(天正18)年の小田原征伐で北条氏を滅ぼし、奥州の伊達氏も配下に加わったことで、ついに天下統一を成し遂げた。
また、秀吉は農民への支配を強めるために「太閤検地」を行った。全国の田畑の面積を詳しく計測し、どれだけの作物がとれるのかを調べ、耕作する農民の名前とともに「検地帳」に記入。どの農民がどれだけの土地を持っているかを把握し、農民たちに決めら
れた年貢を納める貴任を負わせ、勝手に士地から離れられなくした。

 

 さらに、農村に「刀狩令」を出し、農民が刀や槍などの武器を持つことを禁じた。武器を没収して一揆を防ぐという目的があり、取り上げた刀などは大仏を造るための釘やかすがいに変えるとされた。「仏の恵みであの世まで救われる」と喧伝することで、農民が進んで武器を差し出すように仕向けたと考えられている。

 

 そして、農民が転業したり武家奉公人が農民や町人になったりすることを禁じる「人掃令」を出したことで、兵農分離、商農分離が加速し、身分の固定化が進むことになる。

中国・明への進出も

 豊臣政権が盤石になると、中国・明への進出という野望を抱いた秀吉は、その足がかりとして、1592(文禄元)年から二度にわたる朝鮮出兵を実施。そして、この前後から秀吉の性格が苛烈になったといわれ、緊楽第に自身を批判する落書きが書かれた際には犯人を探索し、7人を鼻削ぎ・耳切りにしたうえで倒磔(さかさはりつけ)に処し、さらに老若男女63人を磔とし、最終的に130人を処罰。1591(天正19)年には、重用してきた茶人・千利休を切腹に追い込んでいる。

朝鮮出兵とその後

 朝鮮出兵は現地兵の激しい抵抗に遭い、明から援軍が来たこともあって、思うような戦果が挙げられずに苦戦が続いた。そんな最中の1598(慶長3)年、秀吉は伏見城で死去。

 

 朝鮮半島に出兵した大名らの不満が高まっていたこともあって、秀吉の死をきっかけに内部の対立が表面化し、豊臣家は急速に力を失っていった。

 

 晩年は性質が変化していったように見える秀吉だが、本来は人の心をつかむ天才として「人たらし」と称され、大きな度量で寛容さを見せることで敵対していた大名たちを帰順させている。権力者でありながら末端の者への思いやりがあり、賤ケ岳の戦いで熱暑により倒れる兵士が続出すると、近隣の農家から菅笠(すげがさ)を大量に買い、敵味方の区別なく負傷者に被せて回ったという逸話が残っている。

出典 『人物で読み解く日本史365人』

本記事は、上記出典を再編集したものです。(新星出版社/向山)

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1960年、東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。 1985年に同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省に入省。在英国日本国大使館、在ロシア連邦日本国大使館に勤務。その後、本省国際情報局分析第一課で、主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕、起訴され、2009年6月に執行猶予付き有罪確定。2013年6月、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失った。『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『読書の技法』(東洋経済新報社)、『勉強法 教養講座「情報分析とは何か」』(KADOKAWA)、『危機の正体 コロナ時代を生き抜く技法 』(朝日新聞出版)など、多数の著書がある。

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